八坂の向かい風

 北陸三都の一角・金沢が全国に誇る特別名勝兼六園日本三名園の一つであり、小立野(こだつの)台地の先端に位置し、藩政期に造営された回遊式庭園で……と言ったお決まりの解説はここでするまでもないだろうから端折るとして、街の中心部に位置するこの名勝には、もちろん街の中心部を向いたアクセスの良い入口が幾つかあり、大いに賑わっている。最寄りのバス停に近い桂坂口、百間堀通りを見下ろす店の並びに近い蓮池門口、中心街に接続する広坂交差点に直接繋がる真弓坂口……個人でお出でになったことのある方は、大体このいずれかの入口から入園されたことだろう。

 

 しかし、兼六園の入口はこの三つだけではない。兼六園及びその周辺施設を含めて大きな四角形に見立てるならば、この三つの入り口は一辺の両端とその中点を占めるに過ぎない。他の三辺にも、ちゃんと入口があるのだ。
 そのうちの一つ、小立野口。兼六園下の交差点から観光物産館の方に向かってしばらく坂を上りカーブを曲がり切り、ちょうど小立野通りとの交差点のところにある。先の三つの入り口からはちょうど裏手に当たると言える。
 小立野通り沿いこそ公共施設や店舗が多いものの、少し裏通りに入るとまるきり住宅街であり、あまり観光客に縁がない入口……かと思いきや、さに非ず。

 

 今しがた上ってきた坂のカーブ、そこに『兼見御亭(けんけんおちん)』という長い歴史を持つ会席料理の店がある(※)。この店は大型バスを数台停められる駐車場を有しているため、ツアー客を受け入れることが出来る。ここからちょっと歩けば件の小立野口……もちろん坂の下にも大型バスの駐車場はあるのだが、ここはここで都合が良いのだ。
 しかし、あくまでそういう需要もあるという程度。そのため中心街に向いた側とは異なり、この近辺の歩道は流石に観光客向けに整備されている訳ではなく、ごく普通の道幅である。つまり、ツアー客がバス一台分もやってくると、数分間だが歩道が塞がれる。そして兼六園は比較的朝早く(夏期:朝七時 冬期:朝八時)から開園しているため、しばしば通勤通学のためにこの道を利用する地元民を足止めするのだ。

 

 ありがたく お出でくださる 団体様も
 小径ふたぐは 恨めしい

 

とでも言ったところだろうか。

 

 さて、閑話休題
 前述の『兼見御亭』の脇に、台地から急勾配で下に向かう坂道があり、その名を八坂と言う。どこぞの神様に倣って「やさか」と読みたくなるところだが、ここは「はっさか」と読む。その昔、木こりに使われていた坂が近場に八つあり、そのうち一つが残って八坂と称するようになったのだ……と坂上の標柱にはあるが、郷土史家の考察によると事はそう単純ではないようだ。ただ、ここではその辺の経緯は措く。気になる方は目の前のデバイスでちょっと検索してみれば、すぐにそれらしい記事が幾つか見つかることだろう。
 この八坂、以前の市長の元で景観を眼目に改修された坂の一つで、きちんと日常生活で通行出来るようになっていながら、周辺の風情になかなかのものがある。私の感覚で「これは良いものだ」と思っている点を幾つかご紹介したい。

 

 まず、『兼見御亭』の側、坂上から歩いて坂を下ってゆくと、右手は石垣風の壁から高いコンクリート壁へ、そして松山寺の土塀へと連なり、左手は『兼見御亭』の建物の壁面から寮の生垣、古民家風ゲストハウス、民家の塀へと連なる。このように壁や塀に挟まれてあたかも切通しのようにようになっているからだろうか、夏場の日暮れ時には、時折坂の下から大変心地よい涼風が吹き上げてくる。思わず「極楽の余り風たぁこのことか」と独り言ちてしまうような風である。
 また、坂は途中で少し折れていて、その角に差し掛かった辺りでコンクリート壁と『兼見御亭』の壁が切れ、眺望が開ける。眼下に広がる住宅街を飛び越すように視線を正面に向けると、浅野川向こうの丘陵がパノラマのように立ち上がる。春は平地より遅い桜を心待ちにし、秋は常緑樹の中にちらほらと色付く紅葉を楽しむことが出来る。もう少し視線を上に向けると、ここで空も開けるので、月を見るにも良い場所である。
 逆に、下から坂を上っていくのも良い。松山寺の山門を左手に、先の角まで歩を進めると、下りとは逆にここでぐっと視界が狭まる。両側をを高い壁に挟まれる形になるからだが、視線を坂の上に向けると、夏の天気の良い日などは両側から緑の濃い木々が迫り出していて、それに挟まれて実にいい色の青空を目にすることが出来る。

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八坂から晴天を見上げる

 坂を下りた先は住宅街で、余程の通でないと見どころになるようなものがある訳でもないのだが、兼六園までお出でになったなら、ちょっと立ち寄ってみてもいいスポットだろうと思う。
 そう言えば、松山寺の山門の傍らには、寺院によくある「不許葷酒入山門」の石柱が立っている。もちろん「くんしゅさんもんにいるをゆるさず」と読み下すのだが、これを敢えて「葷」と「酒」の間で切って「くんをゆるさず さけさんもんにいる」と読み下してニヤニヤしたりするのは私だけだろうか。

 

illustrated by yow utsugi 

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※追記 本稿を書いたのは二〇一八年の夏のことだったが、その後二〇一九年一月に兼見御亭は閉店した。そのため現在は駐車場も閉鎖され、団体客で近くの道が塞がれることもない。兼見御亭自体は好立地のかなり大きな建屋であるため、今後の活用が気になるところだ。また、敷地の八坂側には桜が何本か植えてあり、花の時期にはこれがまたいい眺めなのだが、これも今後どうなるだろうか。